発病
平成25年2月10日に千葉県の友人宅で脳梗塞になりました。
私は突然、喋れなくなり頭の中が真っ白になって慌てていました。その時の友人は救急車を呼んだり、今までの私の状態を救急隊員に伝えてくれていて、本当にありがたかったです。
ただ、私が脳梗塞で運ばれた時は友人ではどうしょうもない事があります。治療で家族の同意が必要な場合です。私は、血栓溶解療法(t-PA治療)を行ったのですが、当時は発病から3時間以内に治療を行わなければならないのです。私の携帯電話も暗証番号が掛かっており、調べたら免許証が見つかり警察に電話したのです。家族からの連絡がある間、友人はやるせない気持ちだったでしょう。本当にすみません。
間に合ったのか、間に合わなかったのか判りませんが、t-PA治療をお陰様で受けられました。
千葉県の大学病院
千葉県の病院へ急性期として1ヶ月間、入院していたが、所々しか覚えていないのです。
家族の話をまとめると右半身不随と失語症で、医者から「言葉が分からず会話は難しい」、「携帯電話の操作も出来ないだろう」と言われていた。
平成28年12月頃に改めて千葉県の病院に伺った時に医師は、当時は全失語症と言われ、ここまで話しているのは、まさに奇跡だよと言われ、お世辞でも嬉しかったです。
埼玉県のリハビリセンター
回復期に入ったので埼玉県のリハビリセンターに転院して4ヶ月間、入院しました。
記憶は、最初の1ヶ月は所々しか覚えていなくて2ヶ月以降は覚えています。
初めて死にたいと思ったこと。頑張ろうと思ったこと。頭で考えていたものが表現できずにイライラしていたこと。色々ですね。
当時の失語症診断では、最初は全失語症で最後の診断はブローカ失語です。医師から良くなったと言いつつも、ST(言語聴覚士)との練習では「リンゴ」、「神社」等と単語は答えられたのですが、家族・友人と会話をする時にSTとの練習で覚えた単語は出て来るわけでもなく上手いこと言葉が出ていないのです。結局「はい」、「そう」、「ダメ」、「大丈夫」と4つの言葉を使い、相槌を打つ感じで会話をしていたのです。
右半身不随の足は車椅子から杖に変わり短下肢装具を付けていて、腕は動きませんでした。
退院してから1年間
退院してから1年間は埼玉県に住んでいました。
病院に私の事を会社で面倒を見ると噓をついて貰い、障がい者で一人暮らしを始めた。
殆ど喋れないのに根拠のない自信がありました。でも、そんな自信は退院してから2週間後には消え始め、1ヵ月を過ぎる頃には消えてなくなってしまった。
皆の前で平気なフリをしてたけど、医者・看護師以外に人に会うのが怖かった。単語しか話せないけど、ちゃんと話さないと行けないと言う強迫観念に駆られました。
そんな時、ある出来事があり、上手く言葉に出ないがイメージで、”失語症を怖がらない”、“右半身不随を恥ずかしがらない”と2つの事を守りたいと強く思った。
失語症は、文章は話せなかったが、拙い言葉なんですが単語は話せました。でも、単語は言える単語と言えない単語があり歪んで違う音となるような単語になりました。例えば「カフェオレ」と言う単語が「ガヘホレ」になり、これは治るのに2年ぐらい掛かりました。
後、相槌は「はい」、「そうなんですね」の2つの言葉で元気良く話すと相手側がコミュニケーションが取れたと勘違いしてしまい、良い面と悪い面がありました。
右半身不随は、余り変わらなかった。
都内に引越し
平成26年7月に都内へ引越しました。借りたのは賃貸マンションで3年間の定期借家契約でした。借りた理由は「家賃が安い」と「業務の話が出来る様にする」この2つです。皆には「家賃が安くてさ」と言い、私の心の中では“3年間で業務の話が出来ないのであれば会社を譲る”と誓いました。この事は一部の友人のみ知っていたが、家族、友人及び社員は知らなかった。
リハビリも新しい所を見つけました。とある病院で脳に磁器刺激の受けることなのです。あっ。痛くはないですよ(笑)主に脳卒中後の上肢麻痺・失語症を対象としているんですが、私は特に失語症が効きました。計3回(約2年半)脳に磁器刺激を受け、ある程度の日常会話まで話せるようになったのは、我ながらよくやったなと思いました。でも、目的でもある「業務の話が出来る様にする」は達成出来なかった。平成29年1月に私の中で会社を譲ることを決意し行動に移しました。
平成27年9月にトレーニングジムに通いました。専門的な事は判りませんが、ここは腕・足を鍛えるところなんです。でも、体への余分な負担が少ないため良い汗をかき、障がい者にも優しい場所なので今でも通ってます。後、“右半身不随を恥ずかしがらない”と決めていたんですが、いつの間にか「恥ずかしがらない=発病前と同じ状態」になっていたんです。右半身不随は発病前の状態になって行くのは難しいです。でも、そうじゃないんです。トレーニングジムで「猪狩が頑張っているから私も頑張ろう」と一人でも思って頂ければ幸いです。
都内に住んでた3年間は今、考えると失語症と右半身不随の基礎を学ばせて頂けたかな?(笑)
埼玉県に戻る
平成29年7月に埼玉県川口市に引越しました。
会社も譲りまして、ちょっと遊んでました(笑)
会社を譲渡した理由は沢山有ります。正直な話を言うと、一部の友人が去って行き、会社も譲渡したと言いつつも、平成25年秋から“3年間で業務の話が出来ないのであれば会社を譲る”まで、悶々と下記の事を考えていました。
- 会議中に言葉が出ずに言いたい事も言えずに愕然としてしまう
- 社員が私に対して説明するだけで、かなりの時間を要する
- 会議の途中で私は話せなくなり曖昧な表現で結果的に噓を付いてしまう
「業務の話が出来る様にする」も本当なんですけど、上記の3つの出来事が腹立たしくて、情けなくなってしまい、社員には言わずに会社を譲渡した主な理由なのです。
もう、一つの決定事項は、ここでは言わないでおきます(笑)
当時の私は、会社が去って行きイライラ感が半端無かったかな?その時、本当の友人は黙って私の話しを何回も何回も聞いてくれて、最後に「でも、猪狩は復活するよ。そう信じている」と言ってくれました。感謝しかないですね。
落ち着きを取り戻し、悩んでいる中「この失語症の体験談を資料に出来ないかな?」と思いました。
実は、平成27年に失語症の体験談を作ろうと思い、必死に作成したのですが書けないんですよ。文言が浮かばないんですよ。等々、ギブアップしちゃいました。
でも、あれから2年が経ち、まだまだ不完全ではありますが奇跡的に日常会話が出来る様になった今、必死に失語症の体験談を書きました。まだ、全ては書いていないんですが、やっと第1弾が完成しましたんで、これからです。
また、都内に戻る
余りお金は無かったんですが(笑)、順調に猪狩失語症研究所は活動していました。
しかし、2020年3月に新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が発令されると、一気に「講演活動」と「失語症専門心理カウンセラー」は無くなってしまいました…
悔しいですが、前を向いて一歩一歩、進んでいくしかないですね。
先ずは、就職を考えました。もう、50歳(当時)なので定年まで働くことが出来る会社を探していたのですが運良く見つかりまして就職を決めました。
会社での業務は、システム部のフォロー作業です。難しい事は余り話せないので、私が資料を記載して皆さんが理解してくれます。私みたいな障害者にも優しく接してくれて本当に感謝してます。
埼玉県川口市が良かったんですけど、2021年6月末に都内に引越しました。心機一転ですね。
就職は、一生懸命に働きます。でも、何かしらの「障害者の力」になるのであれば、講演活動を行って行きたいと思いますので、宜しくお願い致します。